花火は慰霊や疫病退散が目的の行事だったとされています。
一説によると、花火はお盆に行われる送り火、迎え火の一種ともいわれており、ご先祖の霊を送り迎えする意図があったようです。
お盆の時期に花火を打ち上げて霊を慰めていたのが、いつの間にか皆で楽しむイベントになったとか、ならないとか…
■花火の掛け声といえば「玉屋(たまや)」「鍵屋(かぎや)」
夜空に咲く花火。沸き上がる拍手や歓声に混じって「たまや~」という掛け声がかかります。
「たまやって何?」
「ふ~ん。花火のときはみんなそう言うの?」
「いや、違う掛け声もあったな。かぎやだ」
「へぇ~。今はないの?」
「わかんない」
「しらんけど…」
会話の主がカップルであれ、親子であれ、この程度では話題が盛り上がりません。せっかくですから、花火の豆知識を仕入れておきましょう。
■花火の歴史、「玉屋(たまや)」「鍵屋(かぎや)」とは?
それでは、花火の歴史を織り混ぜて「たまや~(玉屋)」「かぎや~(鍵屋)」について解説します。
紀元前3世紀ごろ
中国の火薬の発明が戦の武器となり、通信手段のノロシが夜にも用いられるようになって、火薬をきらめかせる技術が花火へと発展しました。
慶長18年(1613年)
徳川家康が日本で初めて花火を観賞したといわれています。
家康が見たのは竹筒に火薬を詰めて火を噴くだけのものでしたが、三河地方に残る「手筒花火」はこの名残だそう。
その後、花火は急速に発展し、江戸で開花しました。
享保18年(1733年)
両国の大川(現在の隅田川)にて川開き花火大会(隅田川花火大会の原型)開催。
そこで活躍したのが日本橋横山町の花火師、鍵屋六代目弥兵衛でした。
もともと「鍵屋(かぎや)」は、葦(アシ)の管に火薬を詰めて星が飛び出す花火を開発し、商才もあって花火市場をほぼ独占していました。
しかし、花火が火事の原因になるため町中では花火禁止令が出され、隅田川の花火だけが許されていました。
当時は納涼船を出して「鍵屋」に花火をあげさせるのが、豪商たちの贅沢の象徴だったのです。
文化5年(1808年)
「鍵屋」番頭の静七が暖簾分けをし、両国吉川町で玉屋市兵衛を名乗る。
やがて川の上流を「玉屋(たまや)」、下流を「鍵屋」が担当し、二大花火師の競演となりました 。
これを応援するための掛け声が「たまや~」「かぎや~」だったのです。
天保14年(1843年)
「玉屋」の出火で大火事となり玉屋市兵衛を江戸から追放。「玉屋」は廃業しました。
つまり、「鍵屋」から暖簾分けした「玉屋」が存在したのはたった35年間だったのです。しかし、
昔も今も花火の掛け声といえば「玉屋」のほうが断然多いのはなぜでしょう?
■花火の掛け声に「たまや~(玉屋)」が多い理由
「鍵屋(かぎや)」の弟子で後発の「玉屋(たまや)」。しかも火事を起こして追放されてしまった「玉屋」。
しかし、現役の頃から「たまや~」の掛け声の方が多く、その後も花火の掛け声の代名詞として現在に至るのはなぜでしょう?
ひとつは花火の技術が勝っていたこと。
もうひとつは、語呂が良いので掛け声を掛けやすかったこと。
そして、江戸っ子気質がそうさせたこと。
こんな狂歌があります。
「橋の上 玉屋玉屋の声ばかり なぜに鍵屋と いわぬ情なし」
これは、実力があったのにたった一代で花火のように消えた「玉屋」への愛情を示したもの。
「情」に「錠」をかけており、「鍵屋の声がねぇのもしかたあるめぇ。錠がねぇんで口が開かねぇ」という詠み手の洒落を含んでいます。
花火は夏の風物詩。
今年の夏も日本のどこかで花火が打ち上げられ、夜空に「鍵屋」「玉屋」の掛け声が響いているとか、いないとか…
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そしたらお金を貸してくれるとか、貸してくれないとか…